「酒で失敗したやつの顔はいくらでも思い浮かぶが、飲めなくて失敗したやつは知らない」 ーー ジャーナリスト大西康之さんに聞く、これからのビジネスとお酒の関係

「酒で失敗したやつの顔はいくらでも思い浮かぶが、飲めなくて失敗したやつは知らない」 ーー ジャーナリスト大西康之さんに聞く、これからのビジネスとお酒の関係

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クライアントとの夜の接待や、会社の飲み会。日本において「仕事とお酒」は、長いあいだ不可分な関係にありました。一方、アメリカでは「アルコールが入った状態で仕事の話をするのは違う」と考えるのが一般的で、「取引先と食事」といえば主にランチを指すといいます。日本経済新聞編集委員などを経て、日本のみならず欧米の経営者やビジネスシーンの取材をしてきたジャーナリストの大西康之さんが見た、日本とアメリカの「お酒との付き合い方」の違いとは?

自らはお酒を飲まないという大西さんは、これからのビジネスパーソンが「自由に生きる」には、会社のお金でお酒を飲まない方がいいと警鐘を鳴らします。「飲みすぎて失敗したやつは数多いが、飲めなくて失敗したやつはいない」という先輩の言葉を支えに、ノンアルコールで28年間の新聞記者人生を歩んだ経験と、「仕事とお酒」を分けた先にある文化的な成熟についても伺いました。



飲み会のゆくえ

「部長、ごちそうさまでした!」

「いやいや、遅い時間まで付き合わせてすまなかったね。じゃあ僕はその辺でクルマを捕まえるから、君たちも気をつけて」

新型コロナの感染拡大に伴う行動規制が緩和され、サラリーマンの聖地、夜の東京・新橋にいつもの光景が戻ってきた。慣れないランチ営業と支援金で綱渡りの経営を続けてきた飲み屋横丁は一安心だ。

日本中至るところで見られるこのシーン。正確に言うと部下たちに「ご馳走」しているのは部長ではなく、会社である。後日、部長は交際費の伝票を切り、自分が飲み食いした分を含め全額を会社から取り戻す。

我が国は世界に冠たる「交際費天国」である。

国税庁が公表している統計によると、2020年の日本企業全体の交際費支出額は2兆9600億円だった。バブル経済の絶頂期にあった1991年にはその2倍の6兆円に及ぶ交際費を使っていた。バブル崩壊とともに減少し、リーマンショック後の2009年には3兆円を割り込むが、2014年度の税制改正で景気浮揚を狙って接待飲食費の50%を損金に算入することが認められた(資本金100億円超の大企業は2019年度末で廃止)ため、再び4兆円台に盛り返した。その後、コロナの影響で3兆円を割り込んだが、冒頭のように行動規制が緩和されたため、今後、増勢に転じるのは間違いない。

会社にとって交際費とは取引先との商談を円滑に進めるための「接待」が主な目的だが、取引先は関係なく「社内の飲み会」であることも少なくない。この場合、飲み会に参加した人数で頭割りした金額が5000円以下の場合は会議費として損金扱いでき、税負担を減らすことができる。「赤提灯で軽く一杯」なら概ねこの範囲で収まる。

「最近の若者は飲み会に誘ってもついてこない」

昭和のおじさんたちはそう嘆くが、年間に4兆円の交際費を使う日本企業において「飲み会」は依然として重要な「意思決定の場」である。もう少し厳密に言うなら「意思決定につながる空気を醸成する場」だ。

自分の時間を大事にしたい20代、30代は上司の誘いに応じない傾向が強まっている。それを知った上司があえて部下を誘わなくなった会社もある。一方で「ちょっと一杯」が減ったことで「社内のコミュニケーションが希薄になった」と嘆く管理職も少なくない。かつて日本では「お酒」と「仕事」が分かち難く結びついていたからだ。。



「お酒」と「仕事」は別のアメリカ

「日本は交際費天国」と書いたが、海外はどうか。1988年から2016年まで日本経済新聞の記者だった筆者は、2000年頃、出張先の米企業でこんなシーンを目撃した。

場所はシリコンバレー。大手IT企業のCEOと雑談をしていると、秘書と思しき女性がツカツカと歩み寄り、レシートを差し出した。

「ボス、このワインは経費では落とせません」

ちらっとレシートを見たCEOは少々バツが悪そうに言った。

「ごめんごめん。そういえば○○さんとランチした時、ワインを頼んだんだよ。うっかり伝票を分けるのを忘れていた」

米国の内国歳入法第274条はこう定めている。

“接待交際費は特定の除外規定が適用されない限り全額損金不算入となる。必要経費と認められる食事代に関しては、原則としてその50%が損金算入対象になるが、接待交際費は原則食事代を含まない。”

 米企業で「取引先と食事」といえば、主にランチを指す。ランチの時間がなければ「パワー・ブレックファスト」と呼ばれる商談のための朝食だ。どちらも原則、アルコールは抜きである。夜の懇親は滅多にないが、新製品の発売、何周年記念といった節目ではパーティーを開く。パーティーはシャンパンで始まり、その後もアルコールが供されるが、立食が多いので、がぶ飲みする人はまずいない。

マイカー出勤が多いこともあって「仕事帰りに一杯」という習慣はほとんどなく、飲む人は家で飲むか、一旦家に帰ってから家族や友人と飲みに出かける。「お酒」と「仕事」はあくまで別と考えられており、「日本企業ではお酒を飲みながら仕事の話をする」と言うと驚かれる。

もちろん米国人もお酒は大好きだ。遺伝子的にはアルコールを分解する酵素を持つ人が日本人より多いとされており、ビールの一杯や二杯では酔っ払わない。しかし「アルコールが入った状態で仕事の話をするのは違う」と考えるのが普通である。

一方、日本では「お酒を飲むのも仕事のうち」という考え方が一般的だ。筆者の父親は地方のラジオ局の営業職で、毎晩したたかに飲んで帰ってきた。母親が「飲み過ぎですよ」と咎めると「うるさい、仕事だ」と怒鳴り返す。昭和の日本ではどの家庭にもあった光景だったと思う。

筆者はそんな父親の遺伝子を引き継いでいなかったらしく、生まれながらの下戸である。大学時代のコンパでは「イッキ、イッキ」の掛け声で無理矢理飲まされ、開始10分でトイレに駆け込み吐き続けた。新聞記者になった時も、当時の部長に真剣に相談した。

「自分は酒が飲めないのですが、それで新聞記者が勤まるでしょうか?」

酒豪で鳴らした部長はしばらく思案してから、こう答えた。

「うーん。酒で失敗したやつの顔はいくらでも思い浮かぶが、飲めなくて失敗したやつは知らないなあ」

名言だと思う。筆者はこの言葉を支えに28年間の新聞記者人生を歩んだ。

朝刊の締め切りである午前1時30分まで働く新聞記者の飲み会は午前2時過ぎに始まる。そんな時間まで開いている店はないので、新聞社の周りには今でいうキッチンカーが軒を連ねる。路上の簡易居酒屋だ。ビールケースを椅子代わりに朝まで先輩の武勇伝を聞くのはそれなりに楽しかったが、酔うと同じ話の繰り返しになるのには閉口した。

取材先とも「取材」と称してよく飲んだ。中には「俺の酒が飲めないのか」と凄む経営者もいて、無理矢理飲まされ帰りのタクシーを何度も止めて路上で吐いたこともある。今思えば立派なアルコール・ハラスメントだが、こちらもネタが欲しいので「このくらいはしかたない」と割り切っていた。

 だが下戸の立場で言わせてもらうと、「お酒」と「仕事」が渾然一体の日本式より、「お酒」と「仕事」は別の米国式の方が、仕事の効率やコンプライアンスの点で優れていると思う。下戸の筆者には分からないが、お酒にはお酒の素晴らしさがあるのだろう。それは仕事とは切り離したところで、思う存分、楽しんでもらえればいい。



あえて飲まないという選択肢

聞けば最近はソバーキュリアス(あえてアルコールを飲まないという選択)という新しい考え方が日本でも広まっているという。私のように下戸でなくても「あえてお酒を飲まない」ビジネスパーソンや経営者が増えている。プライベートではお酒を楽しむが、仕事の延長では飲まない。お酒が入った方が話しやすい、という人も中にはいるが、お酒が入った会合は時間がかかり、その分、プライベートが削られる。お酒と仕事を分けたことで、仕事の効率が上がり、プライベートの時間が増えたという。素晴らしいことではないか。

下戸記者として30余年、筆者はお酒を勧められるたびに「いやーすみません、下戸なんで飲めないんですよ」と頭を下げ続けてきた。その根底にはお酒を飲むことが、あたかも能力であるような「飲める」「飲めない」という考え方がある。飲めない人間は飲める人間より劣っており、だからお酒を勧められるたびに「不調法ですみません」と謝らなければならないのだ。

しかし、それは「飲める」「飲めない」というアビリティー(能力)の問題ではなく、「飲む」「飲まない」というウィル(意志)の問題である。このソバーキュリアスの考え方の方がしっくりくる。

もう一つ「お酒」と「仕事」が不可分の日本式の問題点を指摘しておこう。会社のカネでお酒を飲み続けると、いつの間にかその人が「会社の奴隷」になってしまう、という恐ろしさだ。「ちょっと一杯」も毎晩、積み重ねれば何百万円、何千万円という金額になる。

「これも仕事のうち」とはいえ、会社のカネで飲んでいるやましさはあり、かつては飲めない人間に「お前も飲めよ」と無理に勧めた。そういう習慣が少なくなり「飲まない自由」が尊重し始められたのは喜ばしい限りである。

少し下品だが、米ウォールストリートの金融マンたちの間には「ファック・ユー・マネー」という言葉がある。自分の意に沿わない仕事をやらされそうになった時、上司に「ファック・ユー」と中指を突き立て、辞表を叩きつける。いつでもそれができるだけの蓄えが「ファック・ユー・マネー」。いざというときに、自分の尊厳を守ための備えだ。会社のカネで飲み続けると、いつしか中指を突き立てられなくなってしまう。


新たなノンアルコール文化の訪れ

「仕事」と「お酒」は分けた方がいい二つ目の理由。それは少し前に流行った「マインドフルネス」だ。自腹を切って飲む時、人はそのお酒を一生懸命味わおうとする。そこから文化としてお酒を楽しむ姿勢が生まれる。しかし会社のカネで飲む「ただ酒」になると飲み方が荒っぽくなりがちだ。酒量を競うマッチョ思想にもつながり、文化的に貧相で、体に悪い。

長年、酒席で烏龍茶を飲み続けてきた筆者が羨ましいと思うのは「マリアージュ」だ。「この料理にはこのお酒」。食べ物とお酒を組み合わせることにより、その楽しみは何倍にもなるという。文化としてのお酒のあり方には惹かれる。何百年、何千年の歴史の中、それぞれの風土の中で育ったお酒は「文化の雫」と言える。お酒の文化的な側面は数多くあるが、マリアージュもそのひとつだ。「肉には赤ワイン。魚には白ワイン」から始まり、お酒と食事の組み合わせには無数の組み合わせがある。

ソムリエが語るワインの世界は奥深く、ワインを語り合うことでコミュニケーションが進む。なんとも芳醇で豊かな世界だ。日本酒にもその土地の水、米、風土に由来した味わいがあり、お酒を嗜む人々は「この魚にはあの酒じゃなきゃ」と言う。それを味わえないのはなんとも残念である。

 だがそれはアルコールでしか楽しめないものなのだろうか。日本でもソバーキュリアスが広がり「お寿司にはこれ」「うなぎにはこれ」といったノンアルコール飲料が登場するのではないだろうか。それこそが今の時代に相応しい「新しい文化」である。アルコール抜きでもマリアージュが楽しめる豊かな社会。お酒は飲めないがうまいものに目がない筆者は、そんな日の訪れを指折り数えて待っている。

 

大西康之(おおにし・やすゆき)

1965(昭和40)年愛知県生まれ。1988年早稲田大学法学部卒業後、日本経済新聞社入社。欧州総局(ロンドン)、日本経済新聞編集委員、日経ビジネス編集委員などを経て2016年独立。『ロケット・ササキ―ジョブズが憧れた伝説のエンジニア・佐々木正―』『起業の天才! 江副浩正 8兆円企業リクルートをつくった男』『流山がすごい』など著書多数。

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